書くこと

 

中学生になったあたりから、私は筆記用具(4色ペンと蛍光ペン)を、カバンにしのばせて外出することが多々あった。相方となるメモ帳は持ったり持たなかったりだが、ペンだけは持っていることが多かったように思う。ほぼ落書きだったが、これは覚えておいたほうがいいなと思うことをメモ帳やファミレスの謎ティッシュに書いたりしていた。

 

 

昔は文字を書くのが好きで、気に入った筆跡があればそれをよく真似していた。おかげで自分の字体を確立することが難しくなり、ひいてはそれがアイデンティティの確立に影響さえしているような気がしているのだが、この話はまた今度。

 

 

文字を書いていると安心する。中学3年生の時の公民という授業で、定期テスト毎にテスト範囲をノートにまとめる、というなんだか本当によくわからない課題があった。友達はみんな面倒くさそうにやっていたが、私は嬉々として片手にペンを握りしめ、まとめノートを作っていた。完成されたノートを見て安心感と達成感に酔いしれながら、「もう!これは!作品じゃん!」とニタニタしていた。ただ教科書を模写したその物体から感じられるクリエイティビティはかけらもなかった。

 

 

当方30代男性なのだが、文字は女性に間違えられることもたまにある。好きな女の子の筆跡をまねていたという、もはや特殊な性癖みたいなもんなのでしょうがない。気持ち悪いのだが本当に本当にしょうがない。私だって血沸き肉踊るような躍動感あふれるオリジナルな文字を生み出したいと常々思っているし、これから死ぬまでにやりたいことの一つでもある。まずはペン習字から!

 

 

30歳を過ぎるとノートまとめなんてしないし、定期テストだってないし、大学受験する可能性も低いので、ものを書く機会がぐっと減る。せいぜいローンの申込書や、何かの治療の同意書でしか文字を書かなくなるのだ。そのせいで最近はめっきりペンなんて持ち歩かなくなった。本を読んで線を引くために、ペン所持を復活させたこともあるが、最近は線を引かずページの隅を折り曲げるだけになった。

 

 

そんなこんなでペンの消費は中高時代の1/10以下になったわけだけど、その代わりに「ペン一本の価値」をあげてみようと思ったのが3年前ぐらいである。要は万年筆を使い始めたのだ。その時期上司からLAMYの万年筆をいただくことがあり、「これいいじゃん大人っぽい」という俗も俗な思考回路がつながってしばらく万年筆野郎になっていた。が、すぐ飽きて今はもうどこにあるのかもわからない。私は偽物だった。上司に申し訳なさでいっぱいである。

 

 

手を動かさなくなって、頭の回転がより遅くなった気がしている。手を動かすのは脳だが、脳を動かすのもまた手なのだ。従(手)を失った主(脳)はもはや主ではない。確かに最近はキーボードが代替手段となっているが、そこのは「押す」動作しかない。対して筆記というのは「(正しく)握る」+紙の上を「滑らせる」かつ、隣の字とのバランスを考え体裁を整えることが必要、少なくとも私はそうして文字を書いている。めちゃくちゃ頭使ってるじゃん。

 

 

うま氏からのお題は「ペン」だったのだが、「書く」という行為に注目してばかりだ。というのも、思っていたより道具である「ペン」には興味を向けていなかった人生を送っていた。お気に入りのペンとか、思い出のペンだとかが思い出せない。しいて言えば上司からもらった万年筆は覚えているけど、引っ越しのどさくさにまぎれたままだ。早く探せ。

 

正直なところ、ダイソーの20本入りボールペンでも、一本500円以上する多機能多色ボールペンでも、超さらさらジェットストリームでも、気持ちよく字が書けさえすればよいのである。

 

 

はら