吾輩は宇多田ガチ勢である。ファンクラブはまだない (上)

読者諸賢、久闊を叙す。最近、推しがアツい。今宵はこの胸の滾りを勝手にお届けしたく、筆を取ることにした。少々長いがお付き合いいただきたい。

 

推しが尊い! /My faves is so precious!  (世界が広がる 推し活英語より)

今、宇多田ヒカルがアツい。まずは1月19日に宇多田ヒカルの40歳の誕生日&ライブ配信プログラム「40代はいろいろ」が控えていることが、ガチ勢界隈をすでに興奮のるつぼにしている。

また、世間では去年の11月から公開されたドラマ、First Love 初恋が話題である。このドラマは、もちろん1つの作品としても素晴らしいのだが、宇多田ヒカルのFirst Love、初恋の2つの曲にインスパイアされ作成されているという点が大きく取り上げられている。

 

実は、宇多田ヒカルの楽曲にインスパイアされて作られたドラマ作品がもう一つある。その隠れたドラマと、宇多田ヒカル、そして昭和の文豪、この三者の繋がりを勝手に紐解いて行こうというのが、今回の趣旨である。ちと長いため、上:ドラマと宇多田ヒカル、中:宇多田ヒカルと文豪、下:文豪とドラマ、という形で徒然なるままに紡いでいこうと思う。

最愛の、君に夢中
くだんのドラマは2021年公開の「最愛」である。完全オリジナル作品で、宇多田ヒカルの「君に夢中」が主題歌として使用されている。ラブ・サスペンスとも評される通り、キャッチコピーは「真相は愛で消える」。このキャッチフレーズの意味も、本稿を最後まで読めば得心いただけるのだが、細部まで相当に練り込まれている作品である。主演の吉高由里子さんをして「自分より長生きする作品」と言わしめたほどのクオリティの一端を、宇多田ヒカルとの関係を切り口に早速紐解いて行こう。

 

最愛のプロデューサー、新井順子氏は”宇多田ヒカル ガチ勢"である。コンサートへの参戦はもちろん、今回の企画書作成時も宇多田ヒカルの「SAKURAドロップス」を聴きながらの作成だった。「主題歌は宇多田ヒカルしかない!」と念じた祈りが通じたのか、無事オファーはOKされた。その際、同じく宇多田ヒカル好きで知られる主演吉高由里子歓喜する様子が、インタビューやTwitterから読み取れるが、万感の想いやいかに。

ここで観測できる限りのオファーの経緯をまとめてみよう。宇多田ヒカルへのオファーでは、ドラマ側から3-4話までの台本を渡し、『最愛というテーマに沿って作ってほしい』とだけ伝えたと、監督の塚原あゆ子氏がインタビューで明かしている。宇多田ヒカルはドラマ側からのオファーに対して、SpotifyのLiner Voice+でこのように語っている。「実は、曲自体は3-4年前から作っていたが歌詞がなかった。ドラマからオファーがあった際、あらすじを読ませていただいた。吉高由里子さんの役、真田梨央のイメージと自分の気持ちをどうリンクさせるかを考えた。実際にはドラマのストーリーはそこまで意識せず、細かいところではなく、根底にある感覚みたいなものを発端にした」
こうして両者の言葉を見比べたときに浮かんでくるのが、ドラマ作成側の「最愛というテーマ」と、宇多田ヒカルの「根底にある感覚」という言葉である。この2つの輪郭をもうすこしはっきりさせるため、ピースをもう少し埋めていきたい。

最愛と、君に夢中

ピースの1つをまずはみてみよう。ドラマ最愛の特筆点の一つとして、さまざまな「最愛」の形があることを、ドラマの内容だけでなく枠組みも活かして、表現している点がある。

監督の塚原氏は「ドラマのはじめ、毎回ナレーションが入る。このナレーションを毎回違う人が、自分の最愛について語るという風にして、徐々に物語に入れるように意識した」という趣旨の発言をインタビューでしている。また、ドラマの公式ポスター(ぜひみていただきたい!)も、登場人物それぞれの視点が「誰から誰に」向いているのかを意識させられる構図となっており、最愛にはさまざまな形があることを暗喩している。

もう一つの特徴として、宇多田ヒカルの主題歌「君に夢中」の差し込み方がある。そのタイミングや演出が素晴らしいを通り越して、憎いほどなのだ。「君に夢中」の歌詞とドラマのストーリーを重ね合わせて、これ以上ない瞬間に調整されている。
君に夢中は毎話で流れるが、その各話での使われ方、歌詞のフューチャーのされ方が違う。つまり、ドラマのストーリーと君に夢中の歌詞が完全にリンクしているのだ。そして、各話でフューチャーされる歌詞は、聴きやすいようにドラマの音声と被らないように工夫されているのだ。なんなら音量もあげているところもある、という心憎さ。曲とドラマは別々のものでありながら、2つで1つの作品になっている。これらは作り手側としても相当難しいさじ加減であったことが、塚原氏・新井氏のインタビューからも伺える。物語の中で表現される多面的な「最愛」を、主題歌の一部分と重ねることで、固定した1人の「最愛」ではなく、さまざまな形が表現されている。

真相は愛で消える

ここで野暮とは思いながら、ドラマ中で主題歌と重なるようにフューチャーされている歌詞を、勝手に挙げてみようと思う。ほぼ完全にリンクしていると思われる部分を抜粋したので、ぜひ実際にドラマをみて確認してほしい。

第一話 心の損得を考える余裕のある自分が嫌になります
第四話 今どこにいる?
第六話 まるで終わらないdéjà vu
第八話 許されぬ恋
第十話 普段から大人しくて嘘が下手そうなやつ

これらはもちろん唯一解ではない。「最愛」に唯一解が無いように。これらの歌詞の持つ言葉のちからが、ストーリーを通して、より鮮明に、そして重みのあるものとして響く。それは、メッセージを受け取る人の数だけ、解もあるのだろうと思う。ぜひ、実際にドラマを見ていただいて、それぞれの身体で感じてもらいたい。


上記の僕の解釈については、それぞれに言いたいことが山のようにあるのだけれど、特に第六話「まるで終わらないdéjà vu」に関しては、僕の推測も交えつつ補足して語りたい。第一話のラストで「君に夢中」が流れるのは歩道橋である。そして第六話、まるで「終わらないdéjà vu」と流れるのも同じく歩道橋である。この歩道橋という大道具を背景に、主題歌を小道具として「最愛」を描く制作者たちの緻密さたるや。。。


また、宇多田ヒカル側の緻密さにも触れておこう。そもそもdéjà vuとは、「どこかでみたような気がするが思い出せない」感覚とされ、人と人との出会いを運命的な、宿命的な出会いを暗喩する言葉でもある。それは少し言い過ぎじゃ無いか、と思ったそこのあなた。その視点でこの歌詞の続きをみてみよう。歌詞中に4ヶ所、別々の場所にある、同じ韻を踏んでいる部分である。

まるで終わらないdéjà vu
許されぬ恋ってやつ?
来世でもきっと出会う
ここが地獄でも天国

まさに上記のdéjà vuを説明した言葉と重なりはしないだろうか。
ここで、先ほど述べたドラマ作成側の「最愛というテーマ」と、宇多田ヒカルの「根底にある感覚」という言葉をもう一度、整理してみたい。

誰が一番愛されていたか
最愛というテーマを元に、楽曲を作り上げた宇多田ヒカル。そしてその楽曲を、そして歌詞を、細部にいたるまでマッチさせ、緻密に作り上げたドラマ最愛。ここで浮かぶ疑問は1つである。ここまで重なる部分が多いにもかかわらず、2つで1つの作品として完成されているのはなぜか。なぜこうも違和感なく完璧なまでに統合され得たのか。僕の仮説はこうである。両者の根底にある最愛についてのイメージが、相当な割合で同じであったのでは無いか。僕はこの仮説を、ある昭和の文豪を交えた三角測量的視点を用いることで、ある程度の解像度まで迫ることができたのでは無いかと考えている。ドラマ最愛のファンの中でも謎のままであるキャッチフレーズ「真相は愛で消える」についても、宇多田ガチ勢がアタマを悩ませている宇多田ヒカルのあの発言についても納得いただけるかと思う。

次回、「吾輩は宇多田ガチ勢である。ファンクラブはまだない (中)」以降では昭和の文豪と宇多田ヒカルの関係を整理していきたい。読者諸賢、乞うご期待!

 

うま

2023雑記1

 

昨年11月に引っ越しをしたあとから盛大に体調を崩し、1ヶ月半ほどダウンした。5回目のワクチンの直後だったので副反応か?とビビってたのだが、多分、風邪だった。コロナの可能性も考え、最初の1週間は毎日、次の週は2、3日に一回、次の週は週2回と結構頻繁にキットで検査したのだが陽性になる気配はかけらもなく、ただの風邪では休みづらかったので仕事は続けていた。自分の家で検査する場合は、厚生労働省認可の下りているキットでなければならず、結構なお値段もするため懐も寒くなった。

 

体調を長く崩していると、メンタルも弱る。ここ数年はメンタルのゆらぎとの戦いだったが、ここに来てとどめのアッパー!を食らった気分だった。家から出たくなくなり、やりたいことが本当になくなって、この世の終わりが来るまで唯寝ていたかった。なんとなく鬱っぽいな〜と思ったが、診断されるのも怖いのでチェックリストみたいなのは見ないようにした。ここまで体調が戻らないことが続いたのは初めてでかなり怖かったし、不安になりすぎて満員電車の中で息ができなくなるようなプチパニック発作も経験した。息ができなくなるってのはマジで恐怖である。

 

まさか自分が風邪でここまで自分が追い詰められるなんて....と結構ショックを受け、体調が悪いときは素直に休養にしようとか、普段の体調管理に気をつけようとかいう言葉たちをひしと受け止めた。なんとか大晦日あたりから咳が静まり、なんとなく体が軽くなってきたので「神様本当にありがとう!!!!!!!!!」って10回は言った。

 

年が明けても相変わらず家からは出なかったが、1日の夜だけドライブをした。正月の東京はかなり車が少ないので、年に一度のストレスフリーなドライブが楽しめる貴重な時期だ。病み上がりなのと仕事に呼び出される可能性もあったので遠くまでは行かなかったけれども、前から行きたかった大黒ふ頭に行けたのは良かった。

 

新年の抱負は特にないが、とりあえず神社では「人に優しくする、人と関わる、世界が平和になりますように」とは一応お願いした。前2つに関しては、神様も言われたところでどうしたらいいかわからないと思う。おみくじでは昨年に引き続き大吉を引き当てたが、書いてあることがめちゃくちゃに厳しかった。賭け事は続けてたら破滅するってそれはもう末吉以下だと思うんだけど。調子に乗るなよ、というお告げだろうか。

 

ということで、あけましておめでとうございます。

今年は1ヶ月に1回は上げたい。

本屋と最近

 

先日、青山ブックセンターに行ってきた。

昔から名前だけは知っていて、あんな場所に本屋があるなんて不思議だねぇなんて思っていたが、ついに足を踏み入れた。休日のお昼に国際連合大学前のファーマーズマーケット(おしゃれ食材フリマ)をすり抜けて奥へ、そこからエスカレーターで地下へ行くとブックセンター。

休日の青山の喧騒の中に、静かで、涼しい素敵な場所を発見してしまって、2時間ぐらいうろついていた。雑誌1冊と本1冊しか買ってないが、パラ見した本は20冊ぐらいあるかもしれない。全部買って置けるほどの場所とお金はないので、涙を流しながら、申し訳ねぇと口にしながら本を置いた。嘘です。

 

本屋の好きなところは、静けさと涼しさがある程度保証されている点だ。本を買いに、見にきている人間に騒々しいやつなんてあまりいないし、冷房の効いていない暑苦しい本屋には行ったことがない。うるさい本屋も、暑い本屋もあるのだろうけどわざわざ行く気もしないし探そうともしてない。

 

あの膨大な本たちの中からこれだ!と思える1冊に出会えるのは恋人を探すようなものだけど、手にとって合わなければ置けば良いだけなので対人よりも幾分楽な作業ではある。しかし最近は本屋に行くのが面倒になるほど忙しさにまみれていたので、お目当ての商品が決まっている場合はネットで買うことも多かった。しかもネットは「この商品を見ている人はこんなのも買っています」と提示してくれる。ネットのおすすめを利用するのは音楽恋愛対人仕事探しでも同様だ。AIはすごいな。なんなら中古商品も提示してくれるものだから、「お試し」感覚で買えてしまう。面白かったら新品で手に入れる。最初ネットで買うことは易きに流れている感じがして抵抗があったが、初志貫徹ができない私は現在余裕で楽天とアマゾンを駆使している。

 

書店員の方がつくるポップアップコーナー(?)は、最高。お目当ての本が一網打尽に釣れることもある。書店の長所であり短所は、一発で本が見つけられないところだ。検索機にかけて、本棚に向かい、たくさんの本に埋もれている中から探し出す。本棚に面白そうな本があるとそこに目が行って、探すのに時間がかかる。アマゾンだと一発なんだけど、他の面白そうな本は引っかかってこない。どっちも使いこなして、大人になる。

 

先日、カラマーゾフの兄弟、白痴、罪と罰新潮文庫版を中古で一気に手に入れたため、私の積ん読タワーが港区六本木あたりに建ってそうな高さになった。私が港区タワマンに住む年収を手に入れるのが先か、積ん読タワーが高級低層マンションin広尾になるのが先か。まぁ、どっちにしろ私は葛飾区から一生逃げられない。

 

 

6月から8月は仕事が増えて、嫌な感じで忙しくなった。時間的・精神的拘束がすごく増えたような気がしていた。週1日3ヶ月間、他職場へ出向したのだが朝の早さが尋常じゃないのと、夜の遅さが病的だった。加えて、慣れない職場環境が私のホルモンバランスを崩壊させ、見た目に出るぐらい顔面と頭皮を荒らして回った。疲れすぎて夏期休暇を取るのも面倒になりスルーしたほどである。となると文章なんてインプットもアウトプットも到底できるわけない。でも精神衛生を保とうと好きなライブへは繰り出しいて、久しぶりにSONIC MANIAに参加できた。結果、30代の夜ふかしは本当に危険ということもわかった。よく乗り越えました。

 

 

ベッドを捨てて、ベッドマットのみで寝ているという意味不明な生活から早く抜け出せるよう、年末へ向けて歩いていこうと思う秋の夜長です。

雑記2

生活の質を上げるためには何が必要なのか?逆に、今の生活の質を低下させている物事は何なのか?

 

 

最近ローテーブルを捨てた。2ヶ月ほど前にソファも捨てたので、テレビの前には床しかない状態である。

ソファを捨てたことによるQOL(quolity of life)の低下は、感じ取ることはできたが、ダメージを受けるほどではなかった。そして今月、ローテーブルを捨てると、かなり生活が窮屈になった。例えば洗濯物を置く場所がなくなってしまったので、ベッドに置かざるを得ない。疲れて帰ってきたときは洗濯物をたたむということができなくなるので、ベッド上のそれらは床に放り投げられる。めちゃくちゃ汚い、なんのために洗ったのだ。そのような些細なストレスが溜まっていってる状況である。

 

ソファもテーブルも、引っ越しを考えているから捨てた。予定では5月に引っ越しをする予定だったが、思いの外高くなった引越し費用に恐れをなしてしまい、Xデーは延びに延びている。最近は家探しも疲れてきたので、もう引っ越ししないかもしれない。となれば家具を補充しなければならないのだが、「引っ越す可能性があるなら、今買うのはおかしくない?」と頭の中の謎の私がのたまうことになり、もう本当に意味がわからないループに迷い込んでいる。正直助けてほしい。

 

引っ越さずにソファ(もしくはリビングで安らかに過ごすためのなにか)を買ったとして、QOLは上がるのだろうかそれは難しいきっとだめだ。だって今の家嫌いだもん。

まじで引っ越せ殴るぞ、って思うじゃないですか?でも住みたいなって思う家が本当に見つからない。まじですべてがどうでも良い。今、私から生きる気力が削がれていることだけは確かなrealityである。

 

6月から3ヶ月間、必要な資格を取るために他所で週1回の研修が始まったのだが、恐ろしいほど朝が早い。5時に起きて6時半に着くようにしている。もうこれが本当に本当に辛い。夏であったのが不幸中の幸いで、冬だと日の目を見ない生活になってしまう。また、早起きに加えて人々との関係構築に頭を悩ませている。たった3ヶ月、されど三ヶ月。八方美人気質がある私の初日は、みんなに好かれようと頭を使いすぎて知恵熱からの頭痛に苛まれた(ロキソニン2錠+イブ2錠ぐらい食べた)。が、圧倒的無理&敗北を喫した。このように研修先でもヘタレ野郎の烙印を押された上に、最近は職場の後輩にも見下されてしまっている。

 

しかし昔より私は強くなっているし、後輩も研修先も私の人生においてほんの短期間しか接しないことは確定しているので、気にしないように努めよう。

確かなのは、こんな事考えている人間は世の中にたくさんいて、ウチラ皆仲間同士ズッ友永久不滅(byカナヘイ)。

 

カレンダーと大きな時計がほしい。リビングに現在(時刻)をひと目で把握できるものがあれば、生活にメリハリが出る。人間の感情の大部分をコントロールしている脳内物質は、大体日内変動がすっごい。「今何時?」という問いを正しく答えられることは、生活を正しく踊るために大きなウェイトを占めていると思うのだ。

 

 

今思いつくこととして

・適切なソファとテーブル

・平穏無事な研修と、必要時のみの後輩との関わり

・引っ越しの決断(するかしないか)

・カレンダーと時計

・おばあちゃんちの匂い(白檀?)のするお香

・もう出前頼まない、運動する

・たくさん出かける

積ん読を解消する

 

一番ダメなのはここに書いたことで満足してしまうことだが、既にもういいやと自分を甘やかしている。誰か私をバールのようなものでツンツンしてほしい。ゆとりなので殴られるのはNG。

 

 

次はちゃんとテーマに沿って書きます。

 

はら

脳内会議

はじめに

僕は友達が少ない。こんなことを言うと、『いや、それは周りの人に失礼でしょ』とか言われる。『周りはあなたのこと友達と思っているのに、そんな事言ったら悲しむよ」と。なんだそれ。友達や家族、その境界は人によって千差万別だろ、勝手に決めんな。

 

と、こんなことを考えているから僕は友達が少ないんだろう。そう言い訳している。ただ、単純に友達を軽んじているわけではない。僕は2人以上の友達から、同じ事を指摘された場合、僕は自身を省みるために、自身の脳内で会議を行なっている。

 

例えば、君のここは良いねえとか、ここはちょっとどうかと思うよ、とかいう指摘が重なる場合である。今夜も、僕の脳内会議に議題が上がっている。さっそくだが初めて行こう。

 

議題:「なぜあなたは、このような場面でうまくいかないのか」

今回初めの議題は、新書のタイトルにありそうな議題である。我が親愛なる友が指摘したのは、僕と他者のコミュニケーションにおける、コンフリクトの共通項である。僕は「僕から見て横柄に見える、偉そうにみえる、自分勝手に見える人」とのコミュニケーションが苦手らしい。もっと踏み込むと、僕自分が優位な場でのコミュニケーションに慣れており、それ以外の場、つまり自分が優位でない場や、場の主導権を握ってこようとする人たちとのコミュニケーションを避けているという事である。この考えに至った時には大変衝撃を受けた。我ながら、なんと危うく、幼い振る舞いだろうか。。。

 

思えば社会人になってから約10年が経過し、日常の業務に「慣れて」いることは事実である。それに加えて、今の職場に異動してから、関係各所とのやりとりに無意識のパワーバランスが発生していることが、最も大きな問題であると気づいた。これは仕方ない部分もあるのだが、今の職場の働き方の特性上、僕に優位なパワーバランスが働いてしまっている。別の言い方をすると、「肩書き」に助けられ”すぎて”いる。これはまずい。ほんとうにまずい。

なぜまずいと感じるのか。それは、僕自身が、他山の石・反面教師・逆ロールモデルにしている姿とまさしく重なるからだ。話し手の優位性を振りかざす以外になんの意味もないストーリー(たいてい的外れ)、だれも尋ねていない肩書きの提示、そして「私の親族は〇〇(偉い人)だ」という用途不明のトリビアなど、、、例を挙げればキリがないが、自分がなりたくないものに、自分が重なってしまうという恐怖感たるや。。。

 

ではどう改善するか。短期・長期的対策と分けて考えてみた。

ぱっと思いつくのは、短期的な行動変容と認知変容である。行動変容の具体例は、常に敬語を正しく使用することである。文脈上自分が優位であっても、相手がどんなに年下であっても、敬語を正しく使用することで、自分の優位性にストッパーをかけるのが狙いである。もう一つの認知変容とは、自分自身で納得することである。具体的には、自分の苦手とする「僕から見て横柄に見える、偉そうにみえる、自分勝手に見える人」の行動の裏には、心理的・身体的・社会的にフレイルな(もろい)部分があるからなのだと”納得”するのである。誰だって、覆い隠したい部分があれば、虚勢を張りたいこともあるだろう。それは仕方ない防衛機制である。と、僕自身が納得することである。

 

長期的な対策は、短期的対策の習慣化を行いつつ、環境を変化させることではないかと考えている。すでに述べたように現在の職場環境が今後も変化しない以上、自分から働く場を変えなければいけないと考えた。ということで、この議題は家族会議へ回すこととなりました。異論はすべて受け付けますので、もしあれば次回の脳内会議で共有しましょう。

 

議題:もっと自分の意見を言ったらどう?

次の議題は、「もっと自分の意見を主張したらどう?」である。これは手厳しい。元より、自分自身としては自己主張が苦手、という意識はない。確かに話すよりは聞くほうが居心地がよいのだが、おしゃべり自体は好きな方だと思っていた。しかし今回のご指摘は、「おしゃべり」という話ではなく、「本当に自分がやりたいこと、言いたいことを、押し込めていない?」というより本質的な問いかけであった。この貫通力の高い問いかけには当方、アタマを抱えてしまい、脳内会議にかける次第であります。

 

まず出発点を決めよう。アタマを抱えてしまったということは、今までの人生で思い当たることがあるということである。自分で認めたくなくてもそれが事実であるなら向き合わねばなるまい。「(程度の大小あれど)僕は本当に自分がやりたいこと、言いたいことを発信できていない」、これが今回のスタートである。

なぜそうなったのか。自分の本心を言わずに表面を取り繕う。それはこれまでの人生で、周囲とぶつかり挫折し、表面を取り繕い成功した経験があるからである。周囲とぶつかった時、そのストレスを減らす方法として、「心底ではどう思っていようが表面を取り繕う行動」をとることで、目的を果たしてしまった経験があるのだ。その経験が、成功体験として、ひとつの適応行動として、フィードバックされたのだと、振り返って思う。

 

しかし現在に至って、この経験・行動習慣は、自分の思いを見失ってしまうことにつながっている。「夜と霧」で述べられているwill of meaningを僕は、「自身の(根源的な)意思」と捉えた。自身と鏡写しになっている根源的な自己(=人生)からの問いに応え、主体的な自己として、自らに問い続けていかねばならぬ、そう解釈した。

 

その解釈に沿うのであれば、自分自身と向き合って、自問自答せねばならないにも関わらず、現実の僕は、環境や状況に適応するために、取り繕った言動を身につけてしまっているのだ。目先の利害を優先しまったために、何よりも大事にすべき自身の意思を見えにくくしてしまったのだ。これはいけない。

 

傾向と対策

ではどうすればいいのか。「ありのままの 自分になるの」と、30歳のおっさんが歌ったところで解決にはならぬ。人々が精神論・根性論に走るのは戦略なきゆえである。

 

現時点での対応策は、大きく2つ要素からなる対応である。あえて言葉にすると、①自己と自己付属物を分離すること、②自己と他者の課題を分離すること、となる。

 

小説や絵画、映画などで言われる上達の極意に、「自己と作品を分離する」というフレーズがある。初心者は自分の作品と自己との分離が不十分なため、作品に対する指摘・フィードバックを、自己の否定と認識してしまう、ということである。良い作品を生み出すためには不可欠かつ、乗り越えるべき摩擦・衝突が、自己の存在自体にまで響いてしまうため、その衝撃に耐えることが出来ないのだという。「だったら自己と作品は別だと考えればよいではないかそうではないか!」とアタマでわかっていても、現実にはこれを克服するのは難しいらしい。これを脱却するには、繰り返し作品を作っては直され、再度作っては否定されを繰り返し、自己と作品が別物だと身体で理解する修練が必要なのだという。

 

僕はこの「作品」を拡張し、僕自身の意見や行動、それに怒り喜び悲しさも、「僕自身」ではないと認識することが重要でないかと考えた。これをここでは「自己付属物」と表現する。

 

ピクサーの映画に、「インサイド・ヘッド」という、人の感情を擬人化した秀逸な映画がある。一つの作品としてももちろん面白いのだが、感情とその人自身は異なるという、当たり前だがつい同一視してしまうことを面白く、しかし鋭く指摘している。

 

つまり、僕自身の行動や言葉、感情などは全て自己付属物であり、それらに対する周囲からの反応(衝突などの好ましくないものも含む)は、あくまでも僕自身の存在に向けられたものではないと身体で理解することが大事だと考えた。それらは、僕が選んで出したカード(自己付属物)に対する反応であり、僕はなんのダメージも受けずに、そのカードをまた選び直せばいいのである。これが①自己と自己付属物の分離である。

 

この考えを展延すると、他者も僕と同じように、自己と自己付属物を持っていることとなる。なので、僕の言動という、僕の付属物に他者がどう反応するかは、他者次第であり、僕自身、他者の存在自体を否定することは全くあり得ないのである。イメージとしてはまさに遊戯王である。相対する2人がそれぞれ自己を持っており、それに付属する言葉や感情、意見などが両者の周囲にカードとして提示されているのである。このイメージのメリットは、一人一人の存在の安寧は、完璧に保障されるという事である。コンフリクトするのは、両者の周囲に提示されているカード(自己付属物)であり、両者の存在そのものは傷つくことなく、それぞれのカードを切磋琢磨し、高め合っていくことができるのである。これが②自己と他者の課題分離である。ああ、なんて優しい世界。。。

 

「課題の分離」は、もともとアドラー心理学でよく使用される用語である。その用語を自分自身の中で解釈し直したのが上記である。だが言うは易し。これらを実装し、日常生活に落とし込むのは簡単ではない。そこで、自分自身の生活にダウンロードするために必要だと考えたのが、「うしろめたいや」である。

 

うしろめたいや

日常生活で、うしろめたさを感じたときにこの遊戯王のイメージを思い出すことにした。なぜうしろめたさがキーワードなのか。それは、「うしろめたいや」と感じた時点で、自身の根源的な自己と、言動・感情が乖離してしまっている可能性が高いからである。うしろからの目線が痛い、が語源であるならば、その視線は根源的な自己からの問いかけそのものであると、僕は解釈した。自己と自己の付属物をしっかり分離できていれば、後ろめたさは生じないはずである、多分。この言葉を武器に、気持ち新たに人生を送ることが可決され、僕の脳内会議は終了となった。

 

最後に

YUKIの「ふがいないや」という曲がある。ふがいない・いや(嫌)という気持ちを詰め込んだというこの曲は、内容とは裏腹に、なぜか気持ちが晴れやかになる不思議な曲である。

「遠くまで逃げているつもりでも終わらない君のストーリー」とあるように、根源的な自己からの眼差しはいつまでも振り切れない。であるならば、もういっそ、うしろめたい・いやと思いながらも、自己と向き合っていこうと晴れやかに思えた5月の雑記でした。

 

 

うま

書くこと

 

中学生になったあたりから、私は筆記用具(4色ペンと蛍光ペン)を、カバンにしのばせて外出することが多々あった。相方となるメモ帳は持ったり持たなかったりだが、ペンだけは持っていることが多かったように思う。ほぼ落書きだったが、これは覚えておいたほうがいいなと思うことをメモ帳やファミレスの謎ティッシュに書いたりしていた。

 

 

昔は文字を書くのが好きで、気に入った筆跡があればそれをよく真似していた。おかげで自分の字体を確立することが難しくなり、ひいてはそれがアイデンティティの確立に影響さえしているような気がしているのだが、この話はまた今度。

 

 

文字を書いていると安心する。中学3年生の時の公民という授業で、定期テスト毎にテスト範囲をノートにまとめる、というなんだか本当によくわからない課題があった。友達はみんな面倒くさそうにやっていたが、私は嬉々として片手にペンを握りしめ、まとめノートを作っていた。完成されたノートを見て安心感と達成感に酔いしれながら、「もう!これは!作品じゃん!」とニタニタしていた。ただ教科書を模写したその物体から感じられるクリエイティビティはかけらもなかった。

 

 

当方30代男性なのだが、文字は女性に間違えられることもたまにある。好きな女の子の筆跡をまねていたという、もはや特殊な性癖みたいなもんなのでしょうがない。気持ち悪いのだが本当に本当にしょうがない。私だって血沸き肉踊るような躍動感あふれるオリジナルな文字を生み出したいと常々思っているし、これから死ぬまでにやりたいことの一つでもある。まずはペン習字から!

 

 

30歳を過ぎるとノートまとめなんてしないし、定期テストだってないし、大学受験する可能性も低いので、ものを書く機会がぐっと減る。せいぜいローンの申込書や、何かの治療の同意書でしか文字を書かなくなるのだ。そのせいで最近はめっきりペンなんて持ち歩かなくなった。本を読んで線を引くために、ペン所持を復活させたこともあるが、最近は線を引かずページの隅を折り曲げるだけになった。

 

 

そんなこんなでペンの消費は中高時代の1/10以下になったわけだけど、その代わりに「ペン一本の価値」をあげてみようと思ったのが3年前ぐらいである。要は万年筆を使い始めたのだ。その時期上司からLAMYの万年筆をいただくことがあり、「これいいじゃん大人っぽい」という俗も俗な思考回路がつながってしばらく万年筆野郎になっていた。が、すぐ飽きて今はもうどこにあるのかもわからない。私は偽物だった。上司に申し訳なさでいっぱいである。

 

 

手を動かさなくなって、頭の回転がより遅くなった気がしている。手を動かすのは脳だが、脳を動かすのもまた手なのだ。従(手)を失った主(脳)はもはや主ではない。確かに最近はキーボードが代替手段となっているが、そこのは「押す」動作しかない。対して筆記というのは「(正しく)握る」+紙の上を「滑らせる」かつ、隣の字とのバランスを考え体裁を整えることが必要、少なくとも私はそうして文字を書いている。めちゃくちゃ頭使ってるじゃん。

 

 

うま氏からのお題は「ペン」だったのだが、「書く」という行為に注目してばかりだ。というのも、思っていたより道具である「ペン」には興味を向けていなかった人生を送っていた。お気に入りのペンとか、思い出のペンだとかが思い出せない。しいて言えば上司からもらった万年筆は覚えているけど、引っ越しのどさくさにまぎれたままだ。早く探せ。

 

正直なところ、ダイソーの20本入りボールペンでも、一本500円以上する多機能多色ボールペンでも、超さらさらジェットストリームでも、気持ちよく字が書けさえすればよいのである。

 

 

はら

雑記 4/11

雑記

 

今回はテーマに沿って書くことができなかったので、本当にただの雑記つぶやき日記です。

 

 

この前、久々にドライブで千葉県は勝浦まで行ってきた。

主な目的は、勝浦タンタン麺というご当地ラーメン。でも食事よりも、友達とドライブするという経験が本当に久しぶりで、とても楽しみにしていた。結果、最高の旅であった。

あっさりスープをラー油がカバー、ほぐれるチャーシューに甘みのある玉ねぎ、それらと絡み合うコシのある麺がマリアージュしていて、車で2時間かけたかいがあった。

勝浦は外房の漁師町で、このタンタン麺も海女や漁師たちの冷えた体を温めるフードなのだとか。詳しいことはwikiにのっているのでぜひ読んでいただきたい。食べ物のwikiほど面白いものはない(情報の真偽はここでは問わない)

 

勝浦には高校の友人3人と行った。故郷が同じ我らはやはり海からは切り離せない存在なのだと再確認した。タンタン麺を食べたあとは勝浦の海岸に行き、30分ぐらいはしゃいでた。釣りをするわけでもなく無目的に海岸ではしゃげるのは驚いた。

だがいつまでも高校生気分のままではいられない。車の中での会話は職場がどうだ、転職がどうだ、あの同級生は今こんなことをしているようだ等。昔話に花を咲かせるというよりも「今、自分は現実とこんな風に折り合いをつけて生きているよ」に近い感覚だった。でも実際の私は、現実と折り合いがつけられなくて苦しくて藻掻いていることも多いけど。久々にあった友達に、あまりそんなことは見せないほうが良いと思った。

 

3月は別れ、4月は出会い。

私は社会人になって1年以上同じ職場で働いたことがないという、聞くだけ身震いするようなキャリアを歩んでいる。しかし、なんと、驚くことに、ついに今の職場は1年以上続いてしまった。嬉しい。

1年もいると勝手がわかり、他部署の人間にも冗談を飛ばせてしまうぐらい、距離感もちょうどよくなってくる。人間関係の土台を作るのは1年ぐらいかかると思っていて、今までは土台ができかけていたところで転職してしまっていたから本当にもったいなかったと思う。

出会いという点に関しては、新しく入ってきた後輩が驚くほど優秀であまり先輩ヅラができていない。逆に3ヶ月も立つと後輩が僕を超えてしまうような気がしている。それは別に構わないのだが、お願いだからクビにしないでくれ給え。人事部長、よろしくお頼み申す。

 

相変わらず生きるのが下手くそなのだが、4月に入ってからSNSを辞めたことで何かが変わらないか期待している。インスタグラムだけ続いているが洋服とかヘアスタイルを見るだけのものなので、social的networkな要素は皆無である。

Twitterで繰り広げられる華やかな人々を見ていると、自己肯定感がググィッと下がってしまっていた。今考えると、その程度で下がる肯定感なんてあってないようなものである。3月は多忙に多忙を着せたような多忙さ(?)だったので、本も映画もなんにも摂取できず休日はただ寝るだけという生活。割とそんな人って多い気がするのだけど、そういう人々は表に出てこないので世界で自分独りだけなんじゃないかと無駄に錯覚していた。視野が狭くなると自分に巻き起こるすべてのことを受け入れがたくなり、恐ろしい生物が作り上げられてしまう。そんなのは嫌なので、とりあえずすぐできそうなSNS断ちをしてみると今のところはイイ感じだ。

 

生きるのが下手くそ、と自分で言ってみたが、じゃあ「生きるのが上手い」ってどういうことなんだろう。

輝かしい過去と、誇り高い現在、曇り一つない晴れ渡る未来を生きていくということなのか。

そんな人間は多分いないと思うし、大抵自分が思っているよりも自分の人生は悪くないモノのような気がしている。

 

はら