脳内会議

はじめに

僕は友達が少ない。こんなことを言うと、『いや、それは周りの人に失礼でしょ』とか言われる。『周りはあなたのこと友達と思っているのに、そんな事言ったら悲しむよ」と。なんだそれ。友達や家族、その境界は人によって千差万別だろ、勝手に決めんな。

 

と、こんなことを考えているから僕は友達が少ないんだろう。そう言い訳している。ただ、単純に友達を軽んじているわけではない。僕は2人以上の友達から、同じ事を指摘された場合、僕は自身を省みるために、自身の脳内で会議を行なっている。

 

例えば、君のここは良いねえとか、ここはちょっとどうかと思うよ、とかいう指摘が重なる場合である。今夜も、僕の脳内会議に議題が上がっている。さっそくだが初めて行こう。

 

議題:「なぜあなたは、このような場面でうまくいかないのか」

今回初めの議題は、新書のタイトルにありそうな議題である。我が親愛なる友が指摘したのは、僕と他者のコミュニケーションにおける、コンフリクトの共通項である。僕は「僕から見て横柄に見える、偉そうにみえる、自分勝手に見える人」とのコミュニケーションが苦手らしい。もっと踏み込むと、僕自分が優位な場でのコミュニケーションに慣れており、それ以外の場、つまり自分が優位でない場や、場の主導権を握ってこようとする人たちとのコミュニケーションを避けているという事である。この考えに至った時には大変衝撃を受けた。我ながら、なんと危うく、幼い振る舞いだろうか。。。

 

思えば社会人になってから約10年が経過し、日常の業務に「慣れて」いることは事実である。それに加えて、今の職場に異動してから、関係各所とのやりとりに無意識のパワーバランスが発生していることが、最も大きな問題であると気づいた。これは仕方ない部分もあるのだが、今の職場の働き方の特性上、僕に優位なパワーバランスが働いてしまっている。別の言い方をすると、「肩書き」に助けられ”すぎて”いる。これはまずい。ほんとうにまずい。

なぜまずいと感じるのか。それは、僕自身が、他山の石・反面教師・逆ロールモデルにしている姿とまさしく重なるからだ。話し手の優位性を振りかざす以外になんの意味もないストーリー(たいてい的外れ)、だれも尋ねていない肩書きの提示、そして「私の親族は〇〇(偉い人)だ」という用途不明のトリビアなど、、、例を挙げればキリがないが、自分がなりたくないものに、自分が重なってしまうという恐怖感たるや。。。

 

ではどう改善するか。短期・長期的対策と分けて考えてみた。

ぱっと思いつくのは、短期的な行動変容と認知変容である。行動変容の具体例は、常に敬語を正しく使用することである。文脈上自分が優位であっても、相手がどんなに年下であっても、敬語を正しく使用することで、自分の優位性にストッパーをかけるのが狙いである。もう一つの認知変容とは、自分自身で納得することである。具体的には、自分の苦手とする「僕から見て横柄に見える、偉そうにみえる、自分勝手に見える人」の行動の裏には、心理的・身体的・社会的にフレイルな(もろい)部分があるからなのだと”納得”するのである。誰だって、覆い隠したい部分があれば、虚勢を張りたいこともあるだろう。それは仕方ない防衛機制である。と、僕自身が納得することである。

 

長期的な対策は、短期的対策の習慣化を行いつつ、環境を変化させることではないかと考えている。すでに述べたように現在の職場環境が今後も変化しない以上、自分から働く場を変えなければいけないと考えた。ということで、この議題は家族会議へ回すこととなりました。異論はすべて受け付けますので、もしあれば次回の脳内会議で共有しましょう。

 

議題:もっと自分の意見を言ったらどう?

次の議題は、「もっと自分の意見を主張したらどう?」である。これは手厳しい。元より、自分自身としては自己主張が苦手、という意識はない。確かに話すよりは聞くほうが居心地がよいのだが、おしゃべり自体は好きな方だと思っていた。しかし今回のご指摘は、「おしゃべり」という話ではなく、「本当に自分がやりたいこと、言いたいことを、押し込めていない?」というより本質的な問いかけであった。この貫通力の高い問いかけには当方、アタマを抱えてしまい、脳内会議にかける次第であります。

 

まず出発点を決めよう。アタマを抱えてしまったということは、今までの人生で思い当たることがあるということである。自分で認めたくなくてもそれが事実であるなら向き合わねばなるまい。「(程度の大小あれど)僕は本当に自分がやりたいこと、言いたいことを発信できていない」、これが今回のスタートである。

なぜそうなったのか。自分の本心を言わずに表面を取り繕う。それはこれまでの人生で、周囲とぶつかり挫折し、表面を取り繕い成功した経験があるからである。周囲とぶつかった時、そのストレスを減らす方法として、「心底ではどう思っていようが表面を取り繕う行動」をとることで、目的を果たしてしまった経験があるのだ。その経験が、成功体験として、ひとつの適応行動として、フィードバックされたのだと、振り返って思う。

 

しかし現在に至って、この経験・行動習慣は、自分の思いを見失ってしまうことにつながっている。「夜と霧」で述べられているwill of meaningを僕は、「自身の(根源的な)意思」と捉えた。自身と鏡写しになっている根源的な自己(=人生)からの問いに応え、主体的な自己として、自らに問い続けていかねばならぬ、そう解釈した。

 

その解釈に沿うのであれば、自分自身と向き合って、自問自答せねばならないにも関わらず、現実の僕は、環境や状況に適応するために、取り繕った言動を身につけてしまっているのだ。目先の利害を優先しまったために、何よりも大事にすべき自身の意思を見えにくくしてしまったのだ。これはいけない。

 

傾向と対策

ではどうすればいいのか。「ありのままの 自分になるの」と、30歳のおっさんが歌ったところで解決にはならぬ。人々が精神論・根性論に走るのは戦略なきゆえである。

 

現時点での対応策は、大きく2つ要素からなる対応である。あえて言葉にすると、①自己と自己付属物を分離すること、②自己と他者の課題を分離すること、となる。

 

小説や絵画、映画などで言われる上達の極意に、「自己と作品を分離する」というフレーズがある。初心者は自分の作品と自己との分離が不十分なため、作品に対する指摘・フィードバックを、自己の否定と認識してしまう、ということである。良い作品を生み出すためには不可欠かつ、乗り越えるべき摩擦・衝突が、自己の存在自体にまで響いてしまうため、その衝撃に耐えることが出来ないのだという。「だったら自己と作品は別だと考えればよいではないかそうではないか!」とアタマでわかっていても、現実にはこれを克服するのは難しいらしい。これを脱却するには、繰り返し作品を作っては直され、再度作っては否定されを繰り返し、自己と作品が別物だと身体で理解する修練が必要なのだという。

 

僕はこの「作品」を拡張し、僕自身の意見や行動、それに怒り喜び悲しさも、「僕自身」ではないと認識することが重要でないかと考えた。これをここでは「自己付属物」と表現する。

 

ピクサーの映画に、「インサイド・ヘッド」という、人の感情を擬人化した秀逸な映画がある。一つの作品としてももちろん面白いのだが、感情とその人自身は異なるという、当たり前だがつい同一視してしまうことを面白く、しかし鋭く指摘している。

 

つまり、僕自身の行動や言葉、感情などは全て自己付属物であり、それらに対する周囲からの反応(衝突などの好ましくないものも含む)は、あくまでも僕自身の存在に向けられたものではないと身体で理解することが大事だと考えた。それらは、僕が選んで出したカード(自己付属物)に対する反応であり、僕はなんのダメージも受けずに、そのカードをまた選び直せばいいのである。これが①自己と自己付属物の分離である。

 

この考えを展延すると、他者も僕と同じように、自己と自己付属物を持っていることとなる。なので、僕の言動という、僕の付属物に他者がどう反応するかは、他者次第であり、僕自身、他者の存在自体を否定することは全くあり得ないのである。イメージとしてはまさに遊戯王である。相対する2人がそれぞれ自己を持っており、それに付属する言葉や感情、意見などが両者の周囲にカードとして提示されているのである。このイメージのメリットは、一人一人の存在の安寧は、完璧に保障されるという事である。コンフリクトするのは、両者の周囲に提示されているカード(自己付属物)であり、両者の存在そのものは傷つくことなく、それぞれのカードを切磋琢磨し、高め合っていくことができるのである。これが②自己と他者の課題分離である。ああ、なんて優しい世界。。。

 

「課題の分離」は、もともとアドラー心理学でよく使用される用語である。その用語を自分自身の中で解釈し直したのが上記である。だが言うは易し。これらを実装し、日常生活に落とし込むのは簡単ではない。そこで、自分自身の生活にダウンロードするために必要だと考えたのが、「うしろめたいや」である。

 

うしろめたいや

日常生活で、うしろめたさを感じたときにこの遊戯王のイメージを思い出すことにした。なぜうしろめたさがキーワードなのか。それは、「うしろめたいや」と感じた時点で、自身の根源的な自己と、言動・感情が乖離してしまっている可能性が高いからである。うしろからの目線が痛い、が語源であるならば、その視線は根源的な自己からの問いかけそのものであると、僕は解釈した。自己と自己の付属物をしっかり分離できていれば、後ろめたさは生じないはずである、多分。この言葉を武器に、気持ち新たに人生を送ることが可決され、僕の脳内会議は終了となった。

 

最後に

YUKIの「ふがいないや」という曲がある。ふがいない・いや(嫌)という気持ちを詰め込んだというこの曲は、内容とは裏腹に、なぜか気持ちが晴れやかになる不思議な曲である。

「遠くまで逃げているつもりでも終わらない君のストーリー」とあるように、根源的な自己からの眼差しはいつまでも振り切れない。であるならば、もういっそ、うしろめたい・いやと思いながらも、自己と向き合っていこうと晴れやかに思えた5月の雑記でした。

 

 

うま