別れの言葉は突然に

はじめに

「もうあなたとは一緒に居られない」そう言って隣を歩く彼女は、僕の眼も見ずに歩き続ける。不自然に白黒な世界だった。

 

読者諸賢、ごきげんよう。早速だが皆様にクイズをお出ししたい。僕は妻帯している三十路のリーマンである。そんな僕に別れを告げた彼女は細君ではない。なにゆえこんなことが起きているのか?不埒だ、不法行為だと僕をなじるのは早計である。僕に石を投げていいのはこちらの言い分を最後まで読んでくれた人だけである。いたい、やめて、琉球石灰岩軽石を投げないで、ひい。

 

 

 

 

もしも那覇駅があったら

僕は現在、生まれ育った地元から離れて暮らしている。たまに地元への出張がてら、生まれ育った街を歩くことが数少ない僕の楽しみだ。そして夜には仕事からも、細君からも離れ、ホテルの一室で買ってきた古本を読む。うむ、すばらしい。

 

この文章もホテルの一室で書きはじめた。コロナ禍の影響か、いつもなら手の届かないようなホテルがステキなお値段になっていた。部屋の窓から見ると、満員のモノレール、沖縄を南北に貫く国道58号線の渋滞、そして那覇空港を離着陸する飛行機を見ることができる。人が働いているのに自分は休み。なんという背徳感。

ホテルの隣りにあるバスターミナルは、再開発が行われ、昔の姿の面影はない。県立図書館や合同庁舎などが立ち並んでおり、人の出入りも格段に多くなっている。言うまでもなく、沖縄のバス路線の中心なのだが、戦前は軽便鉄道という鉄軌道の中心でもあった。北は嘉手納、東は与那原、南は糸満とそれぞれ大きな製糖工場や、重要な港を結ぶ沖縄の中心として、那覇駅が存在していた。その遺構が再開発時に発見され、現在もバスターミナル横に展示されている。

歴史に「もしも」はないが、もしも戦後の沖縄を統治したのがアメリカではなく、イギリスだったら。もしも車文化ではなく鉄道文化が流入していたら。今の渋滞だらけの沖縄も違う風景になっていたかもしれない。こんな話をすると、そんなものは妄想だと笑われるのだが、戦後の沖縄の統治はアメリカだと決まっていたわけではない。沖縄の統治は一旦、連合軍の預かりになっていた。それを半ば強引にアメリカが統治したのだという事実を知る人は、沖縄でも多くない。

 

 


葛飾北斎と農耕型観光

那覇駅の遺構のすぐ側には、琉球石灰岩の大きな岩が鎮座している。これは仲島の大石という、古くから縁起が良いとされるスポットで、葛飾北斎の「琉球八景・中島蕉園」にも、海岸線にピコっと突き出した大石の姿が描かれている。ここは昔の海岸線だったのである。

 

ちなみに戦前の那覇の中心は、現在の県庁・国際通りではなく、このバスターミナルよりも海側、現在の西町・東町と呼ばれている浮島があった区画である。かのブラタモリでも「オールド那覇として紹介されていたらしい。北斎琉球八景とそのネタ本である球陽八景・院旁八景に描かれている多くの名所がこのあたりにある。

 

そのためこの周辺には記念プレートや歴史の説明板が多く存在する。現地ではなかなか見つけるのが難しいのだが、那覇市歴史博物館のホームページのマップ上で確認することができる。このような遺構・名所はもっと注目されてもいいのに、と思う。「歴史学者からみたオールド那覇:ラブホ街編」とか、「夜景デートコースで学ぶ沖縄の歴史」なんて募集があったら、僕なら即申し込んでしまう。自分が知らないだけですでにあるかもしれないが。。。冗談はさておき、沖縄の観光も、県外・海外から人を大量に集める狩猟型から、歴史や文化・文学を織り交ぜた農耕型へシフトとしていったほうが良いのではないかと本気で考えてしまう。受け手を育て、学ばせるような観光の形。それは量から質への転換を掲げる沖縄観光の一つの解になるのではないだろうか。

 

 

 

琉球石灰岩と58号線
仲島の大石をはじめとする琉球石灰岩は、沖縄では古くから建材に使われ、世界遺産の玉陵や県内各地の石垣に使われている。現在でもアスファルトの骨材に使われており、そのせいで沖縄の道路は滑りやすく事故が多いと言われる。鍾乳洞のツルツルさを見れば納得だが、しかしその因果関係は定かではない。ただ確かにこの58号線は九州沖縄でもっとも交通量が多く、そのため事故も多い。58号線を走る際にはドライブ本当に気をつけてもらいたい。ドライブと言えば沖縄の道路は、戦後の日本復帰に伴い、右側通行から左側通行へと移行した。なので古い道は右側通行を前提に作られている。車での走行ではそこまで感じないが、バイクの運転手からするとカーブや坂道はとても走りにくいそうだ。こちらも審議は定かではないが妙に説得力はある。

もうひとつ、この58号線の特徴として、「海上国道という点がある。鹿児島市から種子島奄美大島を経てこのホテルの目の前にある明治橋までの海上陸上あわせて600kmを誇る「海上の道」である。この話を僕は、那覇港から鹿児島へのフェリーの中で友人から聞いた。明治橋のすぐ隣、通堂町の那覇港フェリーターミナルから出航し、やっとのおもいで終着・鹿児島が近づいた頃、僕は眼前にそびえ立つ山を見て、「これが桜島かー!」とおおいに感動したのだ。しかし実は薩摩半島の南端、開聞岳だったというのはいい思い出である。その先の錦江湾に入って桜島を見て「これが桜島かー!」とやり直す僕を、友人は冷たい目をして見ていた。

 

 

 

海上の道と火山の道

海上の道」は民俗学者柳田国男の最後の著作であり、日本人の起源を探求する彼の集大成とも言える。その中の「みろくの船」で、茨城県の鹿島踊りの祭歌と、沖縄県八重山諸島のみるく神信仰とを結びつけるあたりは個人的にとても興味深い。しかしより有名なのは、伊良湖岬で椰子の実を見つけた際の記述だろう。黒潮に乗って来たであろう椰子の実のことを熱く友人に語った所、友人が詩にして、有名な唱歌となった。島崎藤村の「椰子の実」である。ちなみに58号線もそうだが、沖縄の街路樹にヤシは多く使われているが、ココヤシは少なく、実がなることはないし、そもそも沖縄原産ではない。不都合な真実だが、必要な演出なのであろう。

 

海上の道ついでに少し脱線したい。今年はフンガ・トンガや岡ノ場福徳などの火山噴火の話題が大きく取り上げられたが、かつて沖縄で海底火山の噴火があったことはあまり知られていない。沖縄にも硫黄鳥島と西表海底火山の2つの火山が存在する。このうちの西表の海底火山が大正時代に噴火し、日本全土に軽石をもたらした。このときの軽石漂流図が残されているのだが、それはまさしく海上の道であり、なかなか見ものである。そして、西表海底火山、硫黄鳥島、そして前出の開聞岳桜島を結ぶ線は、阿蘇山を北端とする西日本火山帯とされており、ある意味、火山の道とも呼べるかもしれない。

 

 

 

岐路と帰路
出張で宿泊したホテルから、国道58号線を中心に、思いつくままに話をつないできた。そもそもこのホテルを選んだ理由はコロナ禍で安くなっていたのと、単に空港に近いからだった。だが、僕の学生時代の思い出の場所でもあったのだ。すっかり変わった景色に、忘却していた。再開発前のバスターミナル、彼女と別れた直後の明治橋そして朝の国道58号線。記憶の箱が、寝ている間にふと開いたのであろう。

 

冒頭のクイズの答えは、チェックアウトする直前に見ていた僕の「夢」である。僕の名誉のために言うが、愛人を作って不倫をしていたわけでは決してない。学生時代に振られた彼女に再び振られるという、僕だけが損な夢を見ただけだ。

歴史に「もしも」はないし、人生の岐路に標識は立っていない。振り返ってみて初めて、あそこが岐路だったのかと、気づく。日本でもっとも長い国道の最終地点・明治橋は、僕にとっての人生の岐路だったのだ。そう考えながら帰りのモノレールに乗る。自分の古い記憶を悼むように心のなかで合掌しながら、僕は帰路についた。なぜだか細君に悪いような気がして、お土産が、いつもより豪華なものになったのはここだけの話である。

 
 
 
 
うま