3.夜

 

夜とは?
 -日没から日の出までの時間。太陽が没して暗い間。(広辞苑

 


今まで生きてきて夜の厳密な定義なんて考えてこなかった。なるほど、太陽が出ていない=夜、なのであった。当たり前のことだが。

 

夜は昔から好きなのか嫌いなのかよくわからない事象の一つだ。その時の状況で容易に印象が変化するものでもある。しかし確実に歳を取るごとに、夜に対する興奮は薄れてきている。

 

幼稚園の時は見てはいけないテレビ番組をやっている時間だと思っていたし、小学校ではお泊り会の記憶がかすかに思い出される。中学高校のときは塾やらお祭りやらの記憶だ。祭りの後、友達の家に泊まるイベントはまさに青春であり、その時に会話した相手や内容はもう覚えてもいないが、最高に甘酸っぱい思い出だ。大学時代はテスト前の徹夜や、飲み会やらライブやらクラブ、夜中のドライブを思い出す。自分が積み上げてきたものと、大学というある程度開かれた環境で得られる新しいものとを統合して、自分に落とし込んでいく作業が大学生の夜の日々というモラトリアムで行われていた。

仕事を始まると夜に対する態度が変わった。特に仕事を始めたばかりの頃は、ひたすら夜勤だったり、翌日の仕事の準備だったり、書類仕事に追われていた。そうして夜という時間の中で、人と関わることが減っていった。

 

夜というのはなんだか怪しい響きを持つ。悪いことや秘め事は大抵夜に行われる。そのスリルさが最高な彩りを人生にもたらすことだってある。自分以外の人間と過ごす夜では、生きている!という実感が湧くことが多いのかもしれない。良いことも悪いことも含めてだ。楽しかった夜の思い出は、必ずそこに誰かがいた。

しかし孤独な夜はそうではない。一人で夜に考え事をしてしまうと、内面へとひたすらに突き進み、自分という深淵から戻れなくなることだってある。そういうことはたまにやるから良いのであって、毎日やっているとメンタルヘルスに影響が出ること必至だ。

 

そんなこんなで、最近の夜はあまり好きではなくなってきた。

 

ここ2年はその傾向が強い。なるべくならコロナの話などしたくないが、生活様式を一変させてしまったこの影響力は無視できない。誰かと酒を飲んだり踊ったりすることは、相応の覚悟を決めなければいけないことになってしまった。そして、その覚悟をするに値する相手であるかどうか、を考えざるを得ない昨今の状況は、多くの人に孤独にさせているかもしれない。私は、そうして独りになった。

 

独りになって何をしているのかというと、昨年はもっぱらYouTube。おそらく生きていくのに必要のない情報が、左から右に流れていくのは心地よかった。でも必要ないはずなのに、「これを知らないと人生損をします」や、「あなた以外はみんな知っている」といった必要を迫ってくる言葉があふれていた。それらを戯言と片づけることはできたが、心のどこかに負債として溜まっていったことは否定できない。

 

それが嫌になって、本を読むようになった。

 

昔から読んだ内容が頭の中に残らず、「読んだ」という事実だけが自分の中に積み重なるのが苦痛で読書は苦手だった。しかし、本ほど他人の思想を手軽に自分の中に取り込み、視野を広げてくれるツールは今のところ思いつかない。また読書することにより、普段使わない語彙を知り、言葉の表現の幅が広がる、はずである。鬱屈とした夜を過ごすのに、本は良き相棒になりえると信じている。


夜はずいぶんと苦手になってしまったが、「夜の帳がおりる」という言葉は大好きだ。意味は「夜の闇に包まれる」で、その動的な表現に日本語の奥ゆかしさを感じる。いつか自然と使えるようにならないものかと期待しているが、むこう10年は無理だろう。

 

 

この記事を書いている最中、世界情勢が大きく不安定になっている。
パンデミックになる前、ロシア語をほんの少し勉強していた時期があり、ロシア、ウクライナポーランドの出身の人たちにカフェでロシア語を教えてもらっていた。ウクライナ出身の女性が、「ロシアには少し複雑な感情を持っているんだよね。ロシア人は嫌いじゃないけど、政府は嫌い。」と言っていたのを思い出した。
市民に生活を棄てさせ、大きな悲しみと恐怖と危険にさらすような現実があってはならないと強く思う。
自分の無力さを感じつつ、自分の身の回りから母国まで、考えを巡らせる契機を無駄にしないようにしたい。

 

 

はら